喋るという営みについて

最近Radio talkというアプリで好きなこと喋ってそれを聞いたりしています。

発端は私がオタク喋りが好きというところなんだけど、現実でオタクと会わなすぎてオタク喋りに飢えてしまったので自給自足みたいな…

なんかでも喋るの苦手なんだよなーって思ってます

喋る才能がない

人との会話だとあんまり喋らない方だと思うのですけど(なのでたくさん喋ってくれる友達と遊ぶと楽~と思います)(人間関係で楽をするな)

一人でラジオみたいにしてると自分が黙ると無音になってしまうので(当たり前体操)とにかく喋らなきゃ!と思うんだけど、焦って喋るから自分でも意外な言葉というか(え?そんなこと思ってたの?)みたいな言葉が飛び出して困る

しかもその言葉が飛び出してから飛び出したことに気づくから「●●みたいな、、、いや、●●ってわけじゃないけど、、、」みたいな言い回しがめちゃくちゃ多くなってかなり聞き苦しい

あとかなり喋るのが遅い

話がうまい人はすごいね

(それはそれとして私は話がうまい人をあまり信用していないし、話がうまくなりたい!という話ではないんだけど)

なんか言葉を喋るというのは基本的に一度音声にしてしまったら音としてはすぐに消えてとどまらないくせに、誰かに届いてしまったが最後それを「言った」という事実は消えずにいつまでも残ってしまうので本当に恐ろしいよ(だってたとえその場に誰もいなくても言葉を喋る己がいる以上、己が聞き届けてしまうものだから)

なんかTwitterでさ、誉め言葉は二秒くらいで言えるけど言われた方は何年も幸せな気持ちになれる…みたいな(ほんまそれ!)ツイがあったけどさ、

マジでそうで喋ってて言葉自体はもうどこにもないけど私が今も覚えてて何年も慰め続けてくれている言葉とかがあるよ

言葉っていうかなんか大2のときバイトさせてもらってたダイビングショップで、イントラさんの姪っ子親子が体験ダイビングしたときのことをよく思い出す

姪っ子ちゃんのお父さんのマスクが外れちゃってイントラさんたちがその対処してるときに私は何もできることがなかったので、近くのヤドカリを拾ってきて待機してる姪っ子ちゃんに見せてあげたりしていたんだけど、それを一緒にバイトしてた後輩に褒められたんだよな

確かにあれは私の中に善良さがあるという確かな証左だったかもしれない

でもだからといってそんな「褒め」にもう5年近く浸ってるのは不健全かもしれない

褒めてくれた後輩とはもう仲良くない、あの時は仲良かったけどいつからか仲良くなくなってしまったな。たぶん私が悪いけど…

褒められを更新していくのが健全な気がする、善良に生きていこうね

でもどっちかというと私は褒められたことというよりは好かれたことを記憶していて、お世辞にも褒められないこんな私を好いてくれる人々が現れたということが嬉しくてそれで満足しちゃっている感じはある

なので(ほんまそれ!)とか言ったが実際には忘れられない言葉ってそんなにないかもしれない、悲しいことに…私は記憶力が良くないのだ

だから基本的に私は文字を書くということの方が好きで、文字は固定されていて変わることがなくて(でも読み手の読み方によって届き方が変わったりはするので、そこも込みで舞城の小説が好きだったりはするんだけど)、

もらう側からしたらまさに証拠みたいにそこに留まっていてくれて何度も読み返せるし、書く側にしてみても言い回しや表現をゆっくり考えながら言い表すことを好ましいと思っているんだけど、

それはそれとして喋るときにだって、頭を使いながらしゃべらなければならないね

私が2秒で発する言葉が、誰かを刺し殺すことも、向こう何十年も誰かを救える薬になることも、

あるかもしれないと思うと口を開くのがまた怖くなる