三鷹天命反転住宅と調布花火

9月24日の日記です

午前中は三鷹天命反転住宅の見学会へ

こないだ軽井沢に行ったときにセゾン美術館で荒川修作とマドリン・ギンズの企画展をやっていて、いろいろ調べてたら三鷹に住宅があるとのことで、

ちょうど日曜休みを取ってた日に見学会をやるらしいので渡りに船!と思って予約をして、行った。

なんかたぶん自分で体験した方が楽しいと思うので、これから行く予定がある人は読まない方が良いと思います。(体験のネタバレ注意!)

 

そもそも荒川修作の作品を初めて見たのは大学の卒業旅行で行った養老天命反転地だった。

そのときは特に荒川修作の作品…と思って見に行った訳ではなく、なんかたぶん一緒に行った友達が行きたいって言ったからかな…?

カラフルで、歪んでいて、ちょっと狂ってるような場所で、たくさん写真を撮った

(私は意味不明の空間が結構好きなのだ)

なのでなんか意味合いとか…どういう人が何のために作った場所なのかとか何も考えずに見たんだけど…

なんとなく「死なないための道」という言葉が心に残っていた

当時の私は今にも負けないグチャグチャな状況で、まぁなんか苦しんでいたんですけど(ちょっとまだ言語化できるほど傷が癒えていない)、

『あぁ、私は死なないためにここに来たんだな』と思った。

そして『死なないための道を歩んでいかなければならない』とも思って、少し泣きそうになった。

大学を卒業して社会に出るという最悪さと、大学で多くの時間を過ごしたコミュニティを失った最悪さで板挟みになっており、正味死んだ方が良いと思っていた。(いつも思っていますが…)

話は冒頭に戻り、「三鷹天命反転住宅」とは、「死なないための住宅」とのことであった。

私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。

三鷹天命反転住宅について - 三鷹天命反転住宅 / Reversible Destiny Lofts Mitaka (In Memory of Helen Keller)

なんか俺の言ってるポエティックな死ではなくて、普通に寿命…というかまぁ天に与えられた宿命…みたいなニュアンスなんでしょうけども、ともかく日々死にそうになっている私が今訪れる意味を感じた。

こういうのはめぐりあわせなのだ、たまたま軽井沢で展示を見たついで、とか、流れで、ということに最も意味があり、何かしらのきっかけがないと永遠に訪れることはない。

ついでに軽井沢で見た「意味のメカニズム」についても書いておくと、とにかくめちゃくちゃ『意味』というものについて考えた人たちなんだな…というめちゃくちゃ漠然とした感想を抱いた。

作品の物量がなんかその執念というか…バカデカパワーを感じさせて…序盤は結構1枚1枚真剣に見てた(思考に取り組んでた)んだけど後半は流し見…になってしまった(閉館時間が近かったのもあり…)

意味…不明…なんだけど、確かに私たちが普段考えている「意味」とは、言葉の枠組みにとらわれており、それを言葉以外の方法で表現したり伝達するのってかなり難しい…

その…何…メカニズムなんだろうけど…「分かっているつもり」の前提の部分を深く深く掘り下げて考えて描いているのが、すごいな~と思った。

作品保護の観点から触ったりするのが禁止されてたんだけど、一緒に行った人は「それは作った人の意思に反してるんじゃないかなぁ!?」てキレてておもしろかった。

布めくったり、ばねを引いたり、触りたくなるものがいろいろあったね。

 

三鷹の話に戻ります。

時間ギリギリで到着すると、入り口に向かって参加者の列ができていた。

外観からもうカラフルでユニーク!天気が良くて、木漏れ日と青空が似合っていた。

階段を上って3階の見学用の部屋へ行く。

実際に住んでいる人もいるから、廊下には自転車や、押し車や、あるいはシーサーなんかが置かれていて、非日常なカラフルな建物と生活感がおもしろかった。

そう、来る前に写真とか見ていて思っていたことは、「なんか芸術作品なのに生活用品(プラスチックの洗い桶や、洗剤や、ケトルなど)が置かれてんのダセ~くね~?」だった。

でも実際見に行ってみると、そして話を聞くと、そこは芸術作品ではなくて「住宅」だった。

んな突飛な内装で!?!?て感じなんだけど、思った以上に真面目に「住宅」をやっていて、そして実際に住んでいる人たちのエピソードを聞くと、「住宅」であることに説得力を感じた。

ぼこぼこの床、球状の部屋、畳の小上がり、カプセルみたいなシャワールーム、部屋の中心に掘り下げられたキッチン、そのどれもが芸術作品としてではなく「住宅」として見ることで、全く違う見え方になる気がした。

部屋に入ると、好きに部屋の中を見て、好きな場所に座るように促された。

私は畳の部屋が気に入って、そのへりに腰をかけた。

管理をしている事務所の方の話が始まった。

荒川修作とマドリン・ギンズのその他の作品について、この住宅についての簡単な説明。

そして住宅を体験する時間。

ひとりの女性が指されて、洗面台で顔を洗う仕草を要求される。

洗面台の前の床は斜めになっていて、靴下をはいていると特につるつる滑って踏ん張りが必要になる。

朝起きて、そのような体の使い方を要求される、それがこの「三鷹天命反転住宅」だった。

 

まずは鞄を「収納する」小さな引き出ししか用意されていないこの部屋で、どこに物を収納するのか?それは天井にたくさん取り付けられたフックたちを使う方法だった。

部屋には長ーいS字フックがあった。

それを天井からぶら下げて自分のカバンをかける。

他の参加者の人たちのカバンをぶら下がっている。

ぶらぶら、ゆらゆらと吊り下げられたカバンは、空間の非現実みと相まって、なんとなく高尚なものに思える。

長く住んでいる人たちは、専用のつりさげ収納を作ったりしているらしい。

最後に見せてもらった事務所でも、食器のつりさげ収納や、ゆらゆら揺れる椅子や、何か筋トレ?ぶら下がり健康具などがつりさげられていて、かなり使いにくそう…と思った部屋がとても素敵に仕立てられていた。

何事も使い様だし、センスと工夫なんだよな…

そうして私たちは身軽になって、今度は部屋の中をぐるぐると回る。

靴下を脱ぐことを薦められる。

床はぼこぼこ、ざらざらで、爪の先を引っかけそうだし、足の置き所によっては転びそうで恐ろしくて、一歩一歩が慎重になる。

ぼこぼこの大きさは二種類あって、大きなぼこは大人の土踏まずに、小さなぼこは子供の土踏まずにフィットするようデザインされているらしい。

そしてそのぼこぼこがあることが分かるよう、影を描く高さに設計されているそうだ。

確かに光をあびるぼこぼこの影が可愛い。

ロイヤルハワイアンのロビーの壁を思い出した。

そして今度は部屋の作りについて実験がされる。

同じくらいの背の高さの2人が、部屋の一番高いところと、部屋の一番低いところに立つ。

2人の背の高さは全く違って見える。

床の高さも異なっているが、天井の高さも異なっている。

部屋はメガホンのように上下で傾斜がついている。

でも部屋を歩いているときにはそんな傾斜を感じない。

ないはずなのに、ある。かなり不思議な感覚だ。

頭の中に、「意味のメカニズム」展で見た絵や、あるいは舞城王太郎の本に出てくるイラストが思い浮かぶ。

立つ場所によって、その人に抱く印象が違う。

今日のあの人はなんか大きいな、今日のあの人はなんか小さいな、それは日によっても異なり、そしてこの部屋で強調されるその見え方の変化は、現実の世界でも起きていると思った。

今度はそのカラフルな部屋の配色についての話。

全部で14色を使ったカラフルな部屋は、それが「自然」の状態であるという考えからその色に塗られたらしい。

「○色」という風に区分できない、「カラフル」としか言えない風景。

確かに「自然」の風景も、いろんな色が使われている…

顔を固定して、視界の中に見える色が何色あるか、という簡単な実験。

参加者ひとりひとりが順番に見えた色数を答える。

みんなそれぞれ違っている。

おもしろかったのは隣同士座って同じような方向を見ていたカップルも、見えている色の数が違ったということ。

私たちの見える世界は人によって違う。

同じ人であっても日によって違う。

そして気づく、普段自分が生活をしていて、こんなに天井を見上げることはない。こんなに足を上げて何かに乗ることはない。こんなにも注意深く床を歩くことはない。

自分に最適化された部屋は、便利で心地いいけれど、贅沢なことに緩く腐っていくような心地がする。

環境が身体の可能性を気づかせてくれる、それは本当にそうで、今私がいる環境では可能性が閉じていく気がするのだ。

泣きそうになって、退職の決意を固めた。

泣くぐらいなら、死にそうになるくらいなら、辞めた方が良いのだ。

私たちは生きるために生きていて、生きることっていうのはただ息を吸って吐いてクソみてえな仕事に毎日通って泥の形状で休日を過ごすことではないのだ。

 

午後は調布花火を見に行った。

調布を散歩して、あとなんかいろいろ買い集める。

マック、ミスド、スーパーでからあげと枝豆と焼き鳥とチューハイ、ドラストで虫よけとお菓子、草だらけの河川敷でビニールシートを敷いて、急な斜面に滑り落ちて爆笑する。

花火が終わっても2時間くらい河川敷でダラダラしていた。

警備の人に「もう電気消えますよ!」と声をかけられた。

田舎出身の私たちからしたら、特設の電気がなくても東京は十分に明るい。

そのうちトイレに行きたくて仕方なくなったので、ファミレスに移動。

ドリンクバーを飲みながら話をして、終電に合わせて帰宅した。

たった一缶のチューハイで、あるいはお酒なんてなくても、こんなに楽しめる私たちが好きだよ。