救い

私を生かすのは遠くにいる、私を知らない人です。

私は何がその人を生かし、何がその人を殺すのか知りません。

ただ生きていてくれればいいと思う、だけどもっと言えば生きていることを教えてもらいたいと思う、できれば幸せに(あるいは不幸せに)(それは彼が望むようにという意味で)生きていてほしいと思う。

人は人を救えない、勝手に救われるだけだと思っているけど、

私が笑顔にした誰かが、また誰かを笑顔にして、巡り巡って私の神様が救われるんじゃないかって、

そんな身勝手で都合の良い祈りで、私は仕事を頑張れているのだ。

私も勝手に救われている。

彼が誰かを救おうと思っているかどうか、本当のところは分からないけど、思っていたとしてもそれとは関係なく、本当に私は私自身の都合で、私の中で完結する形で、勝手に救われているのだ。

きっとそれは、「彼が生きていてくれれば良い」なんていう綺麗ごとを否定する。

私が生きていてほしいと望むのは“私が望む彼”でしかない。

私が望む彼で無くなってしまったなら、その人(その“人”のことを、もう、神様とは呼べないのだと思う)の生死など、どうでもよくなってしまうのだろうか。

そういった暴力的な信仰が、誰かにとっての神様をまたひとり殺したのだろうか。

何が何を救うのかは分からない、何が何を傷つけるのかも分からない。

悲しみに際限はない。

投げ入れられた石が作った波紋は、どこまでもどこまでも広がっていく。

答えが永遠に分からない問いを考えるのは不毛かもしれないけど、もしも彼が傷ついていて、それでも「笑顔でいる」ということが仕事で、それを全うしたのだとしたら、そんなに悲しい嘘はないよと思う。

仕事を全うすることは正しいかもしれないけれど、彼らは感情にフタをして嘘をつくことでお金を得ているのかもしれないけど、矛盾しているけれど、やっぱり私はあなたに生きていてほしいんだ。

心を殺してやがて命も絶ってしまうぐらいなら、すべてを辞めて逃げて命を継ぐことに全部を捧げてほしい(本当に?)(でもこれも本当に暴力的な祈りだ)(彼の命は、彼だけのもので、私の祈りなんて本当に本当に関係ない)(こんな祈りは救われたい私のエゴでしかない)

感情をエンタメにして消費している、愚かで浅ましい人間だ、私たちは

悲しみを消費して、苦しみを消費して、痛みを消費して、大切なものを失って、それでもまた適当な何かを見つけて、身勝手に都合良く救われて生きていくのかもしれない。

神様に出会えて、神様を見つけられて、本当に救われたけど、その救いは本当に正しかったのかな?

私みたいなクソみたいな人間は、救われることなく死んでしまった方が良かったのではないかな。

それこそが本当に神様を救う方法なんじゃないかな。

あるいは、死こそが救いなんじゃないかな。

愚かで浅ましい気色の悪い人間たちに消費されることから解放されて、悲しみや苦しみの無い、高次元の世界に行くことができる秘密の仕組みなんじゃないのかな。

救われることに罪悪感を感じているの、救われる資格が無さすぎる。