意味について

新潮に舞城王太郎の短篇

So You Think This Is It?」

言葉にするのが難しい。。。舞台が珍しくアメリカ。。。

煙か土かの冒頭とか、真夜中のブラブラ蜂の最後とか、バーベルザバーバリアンとか?あとディスコ探偵もそうか

新鮮な気はしてたけど意外と出てきてはいたのか。

舞台のせいなのか、コールドスナップを読んでるときと同じような気持ちになった、英文を日本語訳した文章みたいな。。。

感想を言葉にするのがすごく難しい。。。

よく分かんないんだけどやっぱり物語の展開が凄まじくおもしろい、と思う。

ページを繰る手が止まらないしドキドキワクワクする。

あとはなんかすごく最近の世界に近いところで書いている、いつも揺るぎないメッセージを持つ舞城にあまり感じない時事的な感じがした。

私が勝手にかもしれませんが…

特に冒頭のスポンジの語りかけは、陰謀論と差別とフェイクニュース渦巻く“今”にあってすごく真っ当というか、そうだよねという部分が多かった。

私たちは悪いものに近づかれないように極力気をつけて生きていかなければならない。(それはそれとして、通り魔みたいなどうしようもない理不尽が降りかかることだってあるけれど。。。)(あるいは生まれ落ちた環境そのものが理不尽に塗れて気をつけようなどない人たちはたくさんいる)

私的ヒットは以下の一文 

「許されようと謝ることが、暴力的だと感じないか?」

本当にそうで。。。謝られたら許さなければならないっていうのはひどく暴力的なことだよ、だって謝られたところで受けた傷が無かったことになるわけではないし、失ったものが返ってくるわけでもない

許すことのできない罪は確かにあって、もはや私の中に許せないというくらい強い怒りの炎は残ってはいないんだけど、それでも誰かが誰かを許さないということは認められるべきことだと思っている。

同時に私もまた謝らず、許されないという形の罰を背負っている。(ここで思い浮かぶのは例によって失友なんだけど、私が失友に最悪の不義理をやったときに、失友は私を許すべきじゃなかったんだと思う。今の私はそれを優しさではなくて無関心だと受け取っているし、一生同じ土俵には立てないんだと本当に本当に分かったから(あるいは何も分かっていないのかもしれませんが)私はもう二度と失友に会わない)

まぁそれはいいんだけど 、最近Twitterで缶ビール持ち帰り界隈みたいなインターネット騒ぎを観測して、不義理をやった人たちがほんと申し訳程度の謝罪文を出してるのを見たので、本当に↑の一文は正しい、舞城王太郎の真理を言葉にする力はすごい。。。と打ちひしがれました。許されようと謝ることは、時に暴力的なんですよ。

 

で本題なんですが(?)「意味探しはなし」っていうのがすごくムズくて、

最後の歌の歌詞もまた、これがここにある意味を探すべきではないんですかね?

なんかちょっと違う話だけど私は歌を聞くときあんまり歌詞を気にしてなくて、なので全然まともに覚えてなくてデタラメ歌ったりもするし、そもそもがデタラメみたいな歌詞の曲が好きなんですが(相対性理論とかandymoriとか最近だとずとまよとかね)(たまにこの歌詞スゲ!!!!!ってなって写経したりすることもあるが)

甲本ヒロトさんと草野マサムネさんがラジオでかな?「最近は歌詞を読み込まれすぎな感じ、そんなに意味にこだわりすぎなくていいと思う」みたいなことを言ってて

coconutsjapan.com

救われたっていうか、(うわ好きな人たちがそう言うならそれでええやん、私が正解なんじゃん)みたいな気持ちになって、そういえば歌詞を読み込んでないことや覚えてないことに対して下に見る…じゃないけど「たいして好きじゃないんだろ」みたいな視線があって、それを気にしてる部分が少しはあったのかな〜て気づきました。

てか歌詞だけじゃないんだけど私はマジで記憶力が弱くて漫画とか本とかもディティールをまったく覚えてられない、読んだときの感情とか心に残ったメッセージみたいなのをかろうじて覚えてるだけで、

まあ単純に読んでる回数が少ないのかもしれないけど、覚えていられないのは何度読み直しても毎回新鮮に驚けたり楽しめたりするのが良くて、良いんだけど、

それはそれとしてやっぱりオタクって「語れてなんぼ」みたいなところがあるというか、オタクの「凄さ」ってやっぱり作品の読み込み方の深さと、それを言語化するところに象徴されがちじゃないですか。

だから結構肩身が狭いというか、なんか、、、微妙に劣等感、じゃないけど、自分の中ではもちろん「好き」っていうのは誰かと比べるものではなくて、自分だけの絶対的なものだって分かってるんだけど、どうしても客観的に見ると外に出てくるもので比べるしかなくなっちゃうから、私の好きはもしかしたら私以外の誰にも信用されないものなのかもしれない、みたいなうっすらした覚悟みたいなものを抱えてるんですよ。

でも私としては人生が誰かに信用されるためのものになるっていうのが本当に無理で…

誰かに証明するために何かをやるっていうのが、とりあえず現時点では私のやり方になくて、とにかくどこまでいっても自分のためにっていうのを心がけたいんだよ。

漫画読むにしても「その漫画を詳細まで覚える」ことを目的として読みたくない。てかそもそも漫画読むときに目的意識を持ちたくない。

漫画を読むことが楽しくて、好きで、没頭できるからやってるんであって、誰かに好きを証明するために読んでるわけじゃなさすぎるので・・・

 

昨日若林ゲスト回の星野源ANNをタイムフリーで聞いてて本当に共感の嵐!!!だったんだけど、若林も星野源さんも己の表現を突き詰めすぎてて天才すぎるからマジで私などが「めっちゃ分かる!!!!」ていうのもおこがましすぎるんですけど、

若林が「夜中にスリーポイントシュートやってると『何のために?』って聞かれるんですけど、何のためも何もシュポッていうのが気持ちいいから」って話をしていて、

(本当にそうだよね~)と思ったんですよ。

なんていうか社会的な意味とか実利的な意味とかから解放されたところにしかもう「本当」は存在しない。

「天下をとるとかそういう退屈な話やめて〜」とも言っていたけど、本当にそうで、自分が楽しくてわけわかんなくなるようなくらい没頭できることをやってる人が「本当」なんですよ…

そうなりたい、そうなりたいとか言ってるうちはなれない気しかしない

そして「本当にそう!!!!」ってずっと思ってたし、「自分にとってのまっすぐは人それぞれだから」の自信感にすごく励まされたんだけど、それはそれとして若林が清流で洗った後みたいになっててなんとなく嫌でした。(何?)

まあ「本当」に意味はないのかもしれませんが…

 

「意味さがしはなし」なんとなく分かるけどムズすぎる。

少なくとも「何のために?」ということではないんだよね、他人が求めている、想像している、納得できるような理由なんて無いし必要ない

determinedness

決意感