恐れ入谷の彼女の柘榴を読んだのでその感想

読みました。

すごかった~~~

特に書下ろしの「うちの玄関に座るため息」がすごかったのでその話からします。

てか舞城の本でBLていう文字を見ることになるとは思わなかった。え!?なかったよね、今まででてきてなかったよね!?

私の舞城の本を読んだ順番がディスコ→暗闇→好き好き(文庫版)とかだったと思うんですけど、なので暗闇のホモとヘテロの話は結構覚えていて、「ホモとヘテロを隔てる細くてヨレヨレだけどはっきりとある境界線」の話(いま暗闇を開いて正確に引用しました)、あれでいうと舞城ってはっきりとヘテロ側の人間で、女も男も書く舞城だけど、敬意を以てホモは書かないんだとなんとなく思っていて(言葉として思ったことはないけど、今回驚いて自分がそういう風に思ってたんだな~ということだけど)

だけど今引用のために開いてチラッと見た暗闇にも書かれているように、本当はそんな境界線なんてなくて、曖昧でぼやけていてグラデーションなのかもしれない。

舞城の話は最近に近づくにつれてその曖昧さというかグラデーションが顕著になっているような気がしていて(全然そんなことないかも昔からかも)

例えば日常と不思議のグラデーションとか本当に見事で、不思議なことが自分の生きている世界とちゃんと地続きで描かれていて、いつの間にか不思議に飲み込まれているような、不思議の横で笑ってご飯を食べているような、そういうバランス感がとても好き

あと人の善性と悪性(悪性って言葉あるのかな)のグラデーションていうか、せめぎ合いっていうか…なんかどっちが正しいのか分からない、(それこそ考え続けるべきなんだろうけど)基本的に物語って語り部を信用して読み進めていくものだと思っていたのが、語り部語り部自身の主観によって語っていて、、、誰を信じたらいいのか分からない、、、みたいな怖さが、深夜百太郎の鬼になったお母さんの話もそうだったけど、あって、、、

今回「うちの玄関に座るため息」の語り部、末っ子の弟もまた、そうで、自分の中の頼りなさ、情けなさを物語の中で自覚していく、何が正しいのか考えながら語りを進めていく、あるいは語ることで何が正しいのかを導いていくわけですが、、、

まあいいや、そこの驚きはあったんだけど、何がすごかったって何か本当に私のために書かれたんじゃないかって思えたところです(いつも言うてるけど)(あるいは私が舞城王太郎を読みながら生きてきているから、自分から近寄っていってるのかもしれない、求めた物語が与えられるのは自明のことなのかもしれない)(いや求めた物語が与えられるほどの僥倖はないだろ)

「良くなかったかもしれないが、良かったのだ。」

って、言葉の上では私がよく言っていることだけど、でも違って、直哉さんは『後悔を引き受ける』と言ったのだ。

て考えた時に、一緒に収録されてる二編、「恐れ入谷の彼女の柘榴」と「裏山のすごい猿」がずしんて私の心を撞いたのだ。

「恐れ入谷の彼女の柘榴」は、自分のことがどうでもいいから、他人にどう思われてもいいから、人のことを大事にできない、千鶴こそが私だったし、

「裏山のすごい猿」は誰かに対しての優しさより、在り方としての正しさを求める<俺>こそが私だったのだ。

この二篇は群像に掲載されたときに読んだけど、「恐れ入谷の彼女の柘榴」は(うわ~これ私だな~、気をつけよ~)て思ったけど、思ったはずだけどそんなに響いてなくて、それこそ「なんとなく、ああヤバイ」くらいの感じだった、本当に反省したわけじゃなかった、そういう意味を汲み取るべきだと思ってそういうポーズを取っただけのことだった

「裏山のすごい猿」に関しては猿とカニの怖い話くらいしか覚えてなくて、「marriage is not for everyone」とか母親の告白とか全く覚えてなかった。大事なのはそこでしょ。

私もまた人を愛せないかもしれない欠陥を抱えているのかもしれない、それをヤバいと思っていないことがヤバいのかもしれない、「marriage is not for everyone」ほんとにそれだよ~!と思っている、でも後ろに「うちの玄関に座るため息」がくると途端に(そういうことじゃないんだよ)になる。

めちゃくちゃ分かりやすい人生の参考書かよ?つらい・・・・

私は私の好きな人を、諦めずに求め続けなければいけないのだ。それは別に結婚相手じゃなくてもいいし彼氏じゃなくてもいいしパートナーじゃなくてもいいから。

「別にいいや」ですべてを諦めるべきではないのだ。

職場だって「別に馴れ合いにきてるわけじゃねーので…」とか思ってるから<俺>みたいに職場に友達が誰もいませんが?になるのだ・・・・・

なんならそれで心を病んで退職することになるのだ、周りの人たちがあんなに良い人たちばかりでも・・・・

そしてそれを「後悔していない」ということにして、「こうするしかなかった」ということにして、自分の選択の正しさが否定されることを防ぐために自分の正しさを妄信して、生きていくべきではないのだ・・・・・・・・・・

なんていうか私は本当に自暴自棄な人間なので後悔しないように生きてきた、生きているし、自分の選択が間違ってたら…と考えることは辛いので「言うて今の選択が一番正しいよ」と思って生きている・・・・・なんなら舞城さんあなたが(あなたがっていうか小枝が(小枝だよね?))ディスコ探偵水曜日で言ってたんですよ、人は無意識に最も楽しい未来を選択するって・・・・・(違うっけ?)と思ったけど、

最近好き好きを読み返したから知っている、「奪うこと、失うこと、奪われること、なくすこと、分からなくなること、分かろうとしなくなること、見なくなること、見えなくなること、こいうことって悪いことじゃないよ」「与えること、見つけること、見つけられること、もらうこと、自分のものにすること、自分のものであると分かることも、悪いことじゃないけどね」

この世に絶対的な価値なんてないのだ

自分の正しさを信じて生きていくのは楽だけど、時には自分の間違いを知りながら、それでもそうするべきだと思うことをやる、その後悔を自分で背負っていく、捨てずに、無かったことにせずに、目を背けずに、そうやって生きていくべきなんだと、痛いところをつかれたような・・・・・

でも、「良くなかったかもしれないが、良かったのだ。」ていう言葉が、本当に私にとっての「赦し」みたいで、私がこれから正しいほうへ歩いていけるように、そのための「導き」みたいで、読み終わってしばらくウワーーーンて涙が止まらなかった。

なんで涙が止まらなかったんだろう…なんか、分かんない、でも悲しい涙じゃなかったんだよね・・・・・

ちゃんと、生きていかなければなりませんよ・・・・・(何度目ですか?)

物語の終わり方が本当に美しくて、明るくて、あったかくて、とても大好きなお話になりました、「うちの玄関に座るため息」

TENET見てから読みたかった!!!!それが一番悔しい!!!!