年末年始
実家で美味しいものたくさん食べて健康的な生活してHey!Say!JUMPのコンサート行ったら久々に生理も来て、なんか、元気になったかも!って思ってたけど、家帰ってきたらまたすぐダメになった。
頭痛えし動悸が辛いしすぐ落ち込んでしまう、薬を飲もう、、、
不破湊さんの年末の振り返り配信でお絵描き回見て、マウスなのにめちゃくちゃ上手いしなにより1人描くごとに上手くなる成長の速さがすごかった。
ゲームもだけど常に学び考え習得するというのが癖になってるんだろうな、本当に尊敬します…
でなんかそれ見てたら私が絵を描けないのって、練習しない見て描かない吟味しない繰り返しトライしないという怠惰の結果でしか無いな…て思って悲しくっていうか情けなくなってきて(?)いまabemaで公開されてる去年の歌謡祭の絵を描いてみてる。
絵って本当になんか…自分すぎる…
技術がないから画面見て描いてるだけなんだけど、見て描いててもやっぱなんか適当に誤魔化したくなる自分とか、雑に済ませようとしたり微妙って分かってるけど目を瞑ろうとする自分に向き合わざるをえなくて、なるべく丁寧に書こう…と思ってるけど、、、
デフォルメもムズい!デフォルメってどこを残したらそれで在ることを保てるかが分かってないとできない、なんかデフォルメで描きたい所でも、それを上手く描けなくてちみっこい絵なのにみちみちに描き込んでて意味不明…みたいになってて苦しい
あと好きなポイントが自分の力では全然描き起こせなくてそれも悔しい、、、俺は、、、無力、、、
ましてや自分で絵を作って描いてる人本当にすごいですよ
私はそんなに絵上手じゃないんだけど、めちゃくちゃ幸運なことに周りに絵を褒めてくれる人ばかりだったので、未だに絵を描くことは好きだ(練習は嫌いだから、無限にヘタなままだが、、、)
ありがてい
まぁそんな感じで絵を描いたり嫌になったりして過ごしてますが、シンフォニアやカレスコももうすぐアーカイブの期限切れちゃうから見たいのに何か1日、あっという間に終わっちゃうな…(何もしてないのに…)(でも病院の先生に「何もせずゆっくり休んでください」て言われたからこれで正解なのかも)
不破湊さんといえば(?)、新年の目標配信もめっちゃ良くて、ストイックでかっこよすぎて(こんなにかっこいい人のことを好きなのに、一方俺は・・・・・)てBAD入っちゃってダメダメすぎる、鬱病の人間は楽しむ権利ない(嘘、権利はあるけど才能を失ってる)
俺もなんか目標、、、立てたいな、、、元気が出たら、、、
鬱病の人間のできることには非常に限りがあり、Yahoo募金もなんかできなかった、、、登録の途中で(無理!)ってなって断念した。俺はゴミです。
ジャニーズ、コン会場などで募金箱設置してくれるらしいので現金をブチ込んでくる予定。ありがたいね…
鬱病で休んでいて思うけど、思い起こせば働いてたときも全然鬱病だったな〜というタイミングはあった(このブログにも書いてますが、、、)
多分鬱病…てタイミングでもっとちゃんと立て直しをする必要があるんだ、こんなグチャグチャで立てなくなっちまう前に、、、鬱の中でも程度の高低はあると思うので、チョイヤバかも!というタイミングでいかに自分を立て直すかが大事なのかも、、、(まぁでも立て直しの方法とか一生分からんが、、、)
なんか今日元気だな!てタイミングが通常の状態なのだとしたら、、、それは、、、すごく希望のように思いませんか、、???(分かんない、あるいは絶望かもね)
病院に行って病名をつけるかどうかの違い、病名をつけると傷病手当が貰えるし休むことができるのでおすすめです(?)(鬱にならないのが一番いい)
年末年始は甥と姪とたくさん遊んだ。
3〜6歳児とかまだまだキッズすぎて遊ぶのも別に楽しいっていうか、、、まぁ普通に疲弊、、、て感じだった。(兄や義姉たちも普通に疲弊していた。毎日お疲れ様です、、、)
長きに渡る反抗期を過ごしてましたが、もっとさ、中高生のときにみんなで桃鉄したり人生ゲームしたり大富豪したりすればよかったのかも(でも中3のときには兄は家を出てたしさ〜)
姪ズ甥ズが大きくなって普通に楽しい遊びができる日が楽しみですが、そんな日々はきっと一瞬で、すぐに反抗期が来て「ばーばの家行くのダリィ〜」とかになっちゃうんだろうな…🥲
と思うと、家族が皆で遊べる時間て本当に一瞬なんだな(ヤバい、私は「暖かな家族」とかクソどうでもいいと思っているんですが、遊びに飢えすぎているので家族でも良いからとにかく遊びたい気持ちになっている)(みんなで桃鉄したり人生ゲームしたり大富豪したりしましょうよ…!!!)
ところで姪ズ甥ズの母であるところの義姉たちは2人とも32歳なんだけど、その歳で子どもが2人いる人生を送っていることからも分かる通り(?)未だに「女子力」とか言っちゃうような、女の子にはピンク!お姫様!可愛くあれ!というゴリゴリのジェンダーバイアス再生産お姉さんズなので、勝手ながら俺は俺なりの人生を姪ズに見せたいと思っている。
もちろん選ぶのは姪ズなんだけど、選べないことも、選んでるつもりで選ばされてることも、それに気づけないことも、悲しいことだと思うので・・・・・・(分かんない、あるいはそれもまた1つの幸せなのかもしれない、勝手に悲しがるのは傲慢な振る舞いかもしれない、でもそれは逆の立場でも同じだろ)
二次創作解釈バトルと同じです。
気に入らない他人の二次創作があったとしても批判を投げるのではなく、黙って自分の理想の二次創作を自分で世に出せ!!!!!
あと中学の友達や高校の友達にも会った。
なんかこないだTwitterで「友達は移ろいゆくもの…お互い変化するから仲良かった人と話が合わなくなって別れることもあるし、また巡り会うこともある」みたいなのを見て、
私は結構友達を失ったことを後悔しているし、中学の友達と会ったら中学に戻ったみたいな感じでギャハギャハ笑えることのほうが多かったので、「中学の友達とか話し合わなくて」みたいな話聞いても(ふ〜ん)て思ってたくらいで、友など…長く続くに越したこと無い…と思ってたんだけど、
友達とあんま話盛り上がらないカモ…!みたいなのも経験して、↑のツイートでそれが綺麗に書かれてるのを見て、なんか、(まぁ、たしかにな〜、、、そうなのかもな〜、、、出会いと別れって、そんな悪いもんじゃないのかもな〜、、、)て思い直しかけていたんだけど(けどが多い)
話合わなくても、極論嫌なところが目についても、別に友達でいいよな、、、てやっぱり、思ったよ。
わざわざ失う必要ない。
全然違うところに住んでても、全然違う仕事をしていても、全然違うものを好きで、嫌いで、全然違う人生を歩んでても、一度友達になれた人だから、お互いを尊重し合う気持ちさえあればずっと友達でいることができる…
小学校時代からの友達から届いた年賀状を見て、改めて、そう思いました。
年賀状、かなり無くなりかけの文化だけど、新年にポストを開けて、好きな人たちの文字を見れるの、すごい嬉しいので、無くなるな…。
友達少ないけど、だからこそみんなの幸せを祈れるし、祈らせてもらえることがありがたい。
また元気で会おうね、みんなさ。。。
それはそうと遊ぶ友達が欲しいなら、友達を作りに出かけなければならない!
これもまた本当にありがたいことに、大人になってからも友達はできるということを、実績と実感と共に知っている。
(主に仕事で出会った人たちだけど、仕事で会った人と友達になれるのって本当にラッキーだよな🥲)
今年の目標、友達を増やす、1個ありかもです
VCRGTA
2週間弱、VCRGTAを見ていた。
いつも配信終わりの5時とかまで起きてしまい、翌日12時過ぎまで寝るとかいうウンコみたいな生活習慣だった。
ニートと配信者、相性が良すぎる。(あるいは悪すぎる)
主に葛葉視点で見ていた。
今回不破湊さんが参加してて私も念願でめっちゃ嬉しかったし最初は不破湊さん視点で見てたしめっちゃ初っ端の神カーチェイスとか本当にクソほど笑えたんですが、女の子たちと合流したところから(・・・・・)という気持ちになり見るのを止めた。
なんかだって女の子たちがさ〜〜〜それこそ葛葉が絡んでたカルビ姫とかアルスとか、あるいはめとちゃんとかだったならもう少し心安らかに見れたかもしれないけど、、、、(いえ、分かりません。これも言い訳かも🦆)
ガチ恋女の醜い嫉妬心悲しすぎるし苦しすぎる。
まぁいいや、それで葛葉視点で見てたんですけど、なんか心の指示厨がたくさん沸いた。
◯◯しなよ〜とか、●●しないほうがいいんじゃないの〜!?とか、△△さんに謝んなよ〜!!とか、、、
(わたしはコメ欄見ないし自分でコメもしない、己の心の指示厨は己の心で飼い殺しています。)
なんか小さなことでもイラッとしちゃうの心の状態的なものなのかな〜、、、て思って悲しかったけど、同時に仕方ないと思えた。
イラッとするくらいなら見るの止めればいいのだ。(でもなんかほとんど中毒みたいになっちゃって所々イラッとしながら見続けてしまった。)
あと葛葉が「俺が良いやつだと勘違いしてる奴がいるみてえだけど、俺を見てるくせに」と話していて、(確かに・・・・・)すぎた。
Vtuberの楽しみ方として自分で関係性や物語を編んでいく必要があるとは思うんだけど、それは時にオタクの過度な幻想を含む、当たり前ですが…
すべては解釈なので…
オタクは見たいものを見てるので、葛葉の『良いやつイメージ』だけを強調して、あるいはそうではない部分を排除して見ているが(主語でっかくしちゃったが、“私は”ということです)当然葛葉という人は多面的だし、どうあるか、どう行動するかは完全に自由なので、『こうあってくれ、、、』みたいなオタクのキモい願望はオタクのキモい願望でしかない。そこから外れたからって裏切られた!みたいな気持ちになるのは全くの誤り・・・・・・・
そういう意味でTwitterのオタクとかもキショいんだよな。
なんか“良さそう”な物語、“エモい”物語、“きれいな”物語を紡いでバズってるのとか、、、(偏屈僻みオタク?)
まぁいいんだが、、、それぞれの自由なので、、、
過度な投影は止めよう、それが逆に楽しいよな〜て思った日記です。
アイドルもVtuberもそうだけど、生きてるからこそ思いがけない喜びを与えてれる、、、ような、、、
また鬱
しばらく元気なというか活動的な日々が続いていたわけですが、揺り戻しのように鬱病がやってきた
また会社を休んでしまっていよいよ精神科か心療内科に行こう、、、と思ったんだが、どこもかしこも口コミが怖すぎて日和って、とりあえずオンラインカウンセリングを受けて死ぬほど泣いてめちゃくちゃ頭痛が悪化した
(てか会社のストレスチェックでおしまいの結果を叩き出したので産業医との面談希望したのに永遠に面談が設定されない、弊社はゴミ)
素人が愚痴聞く副業とかもあるという話を聞くのでオンラインカウンセリングとかも信用できねえな・・・・・て人間不信だったけど、さすがに臨床心理士とかって嘘じゃねえよな?!と思って金を払いました
でもこっちも個人情報はおろか顔も出してないし、話聞いてくれた臨床心理士の方もどこの病院所属とかの情報は出してなくて、無責任だからこその穏やかなで曖昧な慰めがありがたかった
ちゃんと生きてくための方法は「ちゃんと生きてく」以外にない
分かってるけど、だからといってできる訳ではない
なにも食べる気起きなくて眠れなくてただ床と水平になっているだけでは一生まともな生活を得ることはできない(栄養のあるものを食べてよく寝て運動していたら、こんな鬱病になることもないでしょう、ご自愛の難しさ)
どうせ死にたい人間なんだから誰に何と思われようと関係ないよな🫓←最近なんか社会性の獲得に伴い忘れていました(本当に?)
死にそうになってまで見栄張ってるの本当に愚か
続きを読む三鷹天命反転住宅と調布花火
9月24日の日記です
午前中は三鷹天命反転住宅の見学会へ
こないだ軽井沢に行ったときにセゾン美術館で荒川修作とマドリン・ギンズの企画展をやっていて、いろいろ調べてたら三鷹に住宅があるとのことで、
ちょうど日曜休みを取ってた日に見学会をやるらしいので渡りに船!と思って予約をして、行った。
なんかたぶん自分で体験した方が楽しいと思うので、これから行く予定がある人は読まない方が良いと思います。(体験のネタバレ注意!)
そもそも荒川修作の作品を初めて見たのは大学の卒業旅行で行った養老天命反転地だった。
そのときは特に荒川修作の作品…と思って見に行った訳ではなく、なんかたぶん一緒に行った友達が行きたいって言ったからかな…?
カラフルで、歪んでいて、ちょっと狂ってるような場所で、たくさん写真を撮った
(私は意味不明の空間が結構好きなのだ)
なのでなんか意味合いとか…どういう人が何のために作った場所なのかとか何も考えずに見たんだけど…
なんとなく「死なないための道」という言葉が心に残っていた
当時の私は今にも負けないグチャグチャな状況で、まぁなんか苦しんでいたんですけど(ちょっとまだ言語化できるほど傷が癒えていない)、
『あぁ、私は死なないためにここに来たんだな』と思った。
そして『死なないための道を歩んでいかなければならない』とも思って、少し泣きそうになった。
大学を卒業して社会に出るという最悪さと、大学で多くの時間を過ごしたコミュニティを失った最悪さで板挟みになっており、正味死んだ方が良いと思っていた。(いつも思っていますが…)
話は冒頭に戻り、「三鷹天命反転住宅」とは、「死なないための住宅」とのことであった。
私たち一人一人の身体はすべて異なっており、日々変化するものでもあります。与えられた環境・条件をあたりまえと思わずにちょっと過ごしてみるだけで、今まで不可能と思われていたことが可能になるかもしれない=天命反転が可能になる、ということでもあります。
三鷹天命反転住宅について - 三鷹天命反転住宅 / Reversible Destiny Lofts Mitaka (In Memory of Helen Keller)
なんか俺の言ってるポエティックな死ではなくて、普通に寿命…というかまぁ天に与えられた宿命…みたいなニュアンスなんでしょうけども、ともかく日々死にそうになっている私が今訪れる意味を感じた。
こういうのはめぐりあわせなのだ、たまたま軽井沢で展示を見たついで、とか、流れで、ということに最も意味があり、何かしらのきっかけがないと永遠に訪れることはない。
ついでに軽井沢で見た「意味のメカニズム」についても書いておくと、とにかくめちゃくちゃ『意味』というものについて考えた人たちなんだな…というめちゃくちゃ漠然とした感想を抱いた。
作品の物量がなんかその執念というか…バカデカパワーを感じさせて…序盤は結構1枚1枚真剣に見てた(思考に取り組んでた)んだけど後半は流し見…になってしまった(閉館時間が近かったのもあり…)
意味…不明…なんだけど、確かに私たちが普段考えている「意味」とは、言葉の枠組みにとらわれており、それを言葉以外の方法で表現したり伝達するのってかなり難しい…
その…何…メカニズムなんだろうけど…「分かっているつもり」の前提の部分を深く深く掘り下げて考えて描いているのが、すごいな~と思った。
作品保護の観点から触ったりするのが禁止されてたんだけど、一緒に行った人は「それは作った人の意思に反してるんじゃないかなぁ!?」てキレてておもしろかった。
布めくったり、ばねを引いたり、触りたくなるものがいろいろあったね。
三鷹の話に戻ります。
時間ギリギリで到着すると、入り口に向かって参加者の列ができていた。
外観からもうカラフルでユニーク!天気が良くて、木漏れ日と青空が似合っていた。
階段を上って3階の見学用の部屋へ行く。
実際に住んでいる人もいるから、廊下には自転車や、押し車や、あるいはシーサーなんかが置かれていて、非日常なカラフルな建物と生活感がおもしろかった。
そう、来る前に写真とか見ていて思っていたことは、「なんか芸術作品なのに生活用品(プラスチックの洗い桶や、洗剤や、ケトルなど)が置かれてんのダセ~くね~?」だった。
でも実際見に行ってみると、そして話を聞くと、そこは芸術作品ではなくて「住宅」だった。
んな突飛な内装で!?!?て感じなんだけど、思った以上に真面目に「住宅」をやっていて、そして実際に住んでいる人たちのエピソードを聞くと、「住宅」であることに説得力を感じた。
ぼこぼこの床、球状の部屋、畳の小上がり、カプセルみたいなシャワールーム、部屋の中心に掘り下げられたキッチン、そのどれもが芸術作品としてではなく「住宅」として見ることで、全く違う見え方になる気がした。
部屋に入ると、好きに部屋の中を見て、好きな場所に座るように促された。
私は畳の部屋が気に入って、そのへりに腰をかけた。
管理をしている事務所の方の話が始まった。
荒川修作とマドリン・ギンズのその他の作品について、この住宅についての簡単な説明。
そして住宅を体験する時間。
ひとりの女性が指されて、洗面台で顔を洗う仕草を要求される。
洗面台の前の床は斜めになっていて、靴下をはいていると特につるつる滑って踏ん張りが必要になる。
朝起きて、そのような体の使い方を要求される、それがこの「三鷹天命反転住宅」だった。
まずは鞄を「収納する」小さな引き出ししか用意されていないこの部屋で、どこに物を収納するのか?それは天井にたくさん取り付けられたフックたちを使う方法だった。
部屋には長ーいS字フックがあった。
それを天井からぶら下げて自分のカバンをかける。
他の参加者の人たちのカバンをぶら下がっている。
ぶらぶら、ゆらゆらと吊り下げられたカバンは、空間の非現実みと相まって、なんとなく高尚なものに思える。
長く住んでいる人たちは、専用のつりさげ収納を作ったりしているらしい。
最後に見せてもらった事務所でも、食器のつりさげ収納や、ゆらゆら揺れる椅子や、何か筋トレ?ぶら下がり健康具などがつりさげられていて、かなり使いにくそう…と思った部屋がとても素敵に仕立てられていた。
何事も使い様だし、センスと工夫なんだよな…
そうして私たちは身軽になって、今度は部屋の中をぐるぐると回る。
靴下を脱ぐことを薦められる。
床はぼこぼこ、ざらざらで、爪の先を引っかけそうだし、足の置き所によっては転びそうで恐ろしくて、一歩一歩が慎重になる。
ぼこぼこの大きさは二種類あって、大きなぼこは大人の土踏まずに、小さなぼこは子供の土踏まずにフィットするようデザインされているらしい。
そしてそのぼこぼこがあることが分かるよう、影を描く高さに設計されているそうだ。
確かに光をあびるぼこぼこの影が可愛い。
ロイヤルハワイアンのロビーの壁を思い出した。
そして今度は部屋の作りについて実験がされる。
同じくらいの背の高さの2人が、部屋の一番高いところと、部屋の一番低いところに立つ。
2人の背の高さは全く違って見える。
床の高さも異なっているが、天井の高さも異なっている。
部屋はメガホンのように上下で傾斜がついている。
でも部屋を歩いているときにはそんな傾斜を感じない。
ないはずなのに、ある。かなり不思議な感覚だ。
頭の中に、「意味のメカニズム」展で見た絵や、あるいは舞城王太郎の本に出てくるイラストが思い浮かぶ。
立つ場所によって、その人に抱く印象が違う。
今日のあの人はなんか大きいな、今日のあの人はなんか小さいな、それは日によっても異なり、そしてこの部屋で強調されるその見え方の変化は、現実の世界でも起きていると思った。
今度はそのカラフルな部屋の配色についての話。
全部で14色を使ったカラフルな部屋は、それが「自然」の状態であるという考えからその色に塗られたらしい。
「○色」という風に区分できない、「カラフル」としか言えない風景。
確かに「自然」の風景も、いろんな色が使われている…
顔を固定して、視界の中に見える色が何色あるか、という簡単な実験。
参加者ひとりひとりが順番に見えた色数を答える。
みんなそれぞれ違っている。
おもしろかったのは隣同士座って同じような方向を見ていたカップルも、見えている色の数が違ったということ。
私たちの見える世界は人によって違う。
同じ人であっても日によって違う。
そして気づく、普段自分が生活をしていて、こんなに天井を見上げることはない。こんなに足を上げて何かに乗ることはない。こんなにも注意深く床を歩くことはない。
自分に最適化された部屋は、便利で心地いいけれど、贅沢なことに緩く腐っていくような心地がする。
環境が身体の可能性を気づかせてくれる、それは本当にそうで、今私がいる環境では可能性が閉じていく気がするのだ。
泣きそうになって、退職の決意を固めた。
泣くぐらいなら、死にそうになるくらいなら、辞めた方が良いのだ。
私たちは生きるために生きていて、生きることっていうのはただ息を吸って吐いてクソみてえな仕事に毎日通って泥の形状で休日を過ごすことではないのだ。
午後は調布花火を見に行った。
調布を散歩して、あとなんかいろいろ買い集める。
マック、ミスド、スーパーでからあげと枝豆と焼き鳥とチューハイ、ドラストで虫よけとお菓子、草だらけの河川敷でビニールシートを敷いて、急な斜面に滑り落ちて爆笑する。
花火が終わっても2時間くらい河川敷でダラダラしていた。
警備の人に「もう電気消えますよ!」と声をかけられた。
田舎出身の私たちからしたら、特設の電気がなくても東京は十分に明るい。
そのうちトイレに行きたくて仕方なくなったので、ファミレスに移動。
ドリンクバーを飲みながら話をして、終電に合わせて帰宅した。
たった一缶のチューハイで、あるいはお酒なんてなくても、こんなに楽しめる私たちが好きだよ。
7/7~9/13くらいまでのツイートまとめ
鬱病の時しかブログ書いてない
毎日仕事辞めたいし辛いし限界だけど、ツイート見返したら毎日を楽しもうと必死に生きていてかわいかったので(上位存在の感想?)めっちゃ長くなっちゃったけどまとめておきます
てかもうTwitterも“おしまい”になっちゃっていい加減辞めたいんだけど、やっぱりこういう風に後から「その瞬間」の気持ちを振り返れるのって良くて、、、逆にツイートしてない気持ちのこと全部忘れてるから終わってます(終わってます)
なんか不快だったこと、嫌だったこと、悲しかったこと、ムカついたことを一部恣意的に文字に残さなかったんだけど、そういう気持ちのことちゃんと全部忘れており、これで正解なような気もするが、失った感情が惜しいような気もする
でも仕事さえ辞めたら人生はそんなに悪くない気もする(でも辞めたら辞めたで金銭的な不安でおしまいになる気もする)(まぁ適当にバイトとかして食いつないでいくか~)
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日記
全然鬱抜けなくて最悪すぎるよん🎶
でも自分で鬱〜しんどいよ〜と言うのはいいけど他人からそう思われたり憐れまれたりするのは我慢ならねえ
てか人を憐れむのって最悪の行為すぎませんか?!!?!(海辺のカフカ)(私も気をつけよう・・・・・)
自分なり相手なりになんか思うところがあり、自分と相手を比べて、自分の心の落とし所として安心したいために、「憐れみ」というものがあると思うので、なんか自分の人生に集中してる人は人を憐れんだりしてる暇ないよな〜
そうです
自分の人生に集中するべきだ
なんというか最近丸くなったので(?)完璧ではないことを許したり(諦めたり)言わなくてもいいことを飲み込んだりしてるんですが、そのせいで不調なのかな?と思わなくはない(いや別に関係ないと思うけど)
ある意味では正しい振る舞い、大人になるってこういうことだと思うけど、なんかあまりにも鬱続きすぎて藁にもすがりたい気持ちなので書いてみることにする。。。
なんか結局さぁ、同じ事象でも「楽しかった!」と言えたもの勝ちというか、SNS社会では(?)(てかまぁ、仕事でもそう。すべてです)どう見えるかの最終出力部分がいかに良さそうかでジャッジをされてしまう訳じゃないですか。
そのようなジャッジをマジで無用のもの、他人にとっての価値に全く価値を感じない、などと言いつつ、やはり気にしてしまってるんだろうなと思う。
でもやっぱ気にしても良いことないよね、自分にとっての価値、自分にとっての満足を追求していきたい
しかも別に私って幸せにならなくてもいいんだ
幸せって他者による価値観だし、、、
幸せに見られたい、思われたい、みたいな無意味で虚しい欲望に縛られるのを辞めろ
俺の人生は俺だけのものだ
・仕事
新しい人が入ってチームのメンバーが増えてめんどい&苦しい&しんどいすぎて俺はやはりチームワークというものに死ぬほど向いていない、、、
家帰ってからも仕事のこと考えちゃったりミスして心臓痛くなったりしんどすぎて早く辞めたいよ!(ずっと言ってる)
まぁでも辞めれます、辞めようと思えばいつでも辞めれるんだ、、、それはそう
・人に会った
友達にvtuber好きな友達を紹介してもらい3人でご飯に行ったんですが何か解釈や取り組み方が違いすぎて絶対仲良くなれない、、、と思ったけど、1回しか会ってないのに絶対仲良くなれない、、、とか思ったり、てか誰とでも仲良くできない自分のことが悲しすぎてなんかWで悲しかった
なんか嫌だったのは好きになったタイミング、好きでいる長さで測られて、自分のほうが分かっている、という断定的な話し方をされたのがすごく嫌だった
さらにその内容ってかなりTwitterとかで流れてきそうな、なんか、、、それガチで“てめえ”の”ソウル“ですか、、、?????って感じで、、、
オタクが出会った時に発生するうわー!分かる分かる!!!みたいな共鳴が全然なかった
なんかでも自分も紹介してくれた友達からしたら同じなのかな?同じく意味分かんねえオタクだから紹介されたのかな?て思ったら(被害妄想ですが)なんか悲し、、、てなった(悲し、、、てなってることも悲しいよ)
いや普通に親切心なんだと思うよ、分かってるけど、、、
てかまぁ自分の解釈と違うこと言われてピキるくらいならもう誰とも会うべきではない
俺は人と馴れ合えない孤独なオタクなんだ(そうなの?)
なんかでも今までできたオタクの友達たち、基本的にみんな(それ〜〜〜!!!)(分かる〜〜〜!!!!)で共鳴してきたけど、めちゃくちゃ幸運だったんだね
こんなこともあらァな
分かってくれる人に分かってもらえたらそれでいいよね
俺たちは無限の差異を持つ異なる人間たち、だからこそ同じところを見つけて分かりあえることが奇跡みたいに嬉しいんだ